前に東海道を歩いた知人が「何もなく、畑のまんなかに本陣跡の・・・」というような話を聞いたと思い込んでいたんだけど、今考えると、歩いた方向が違うから、鈴鹿峠を降りたところにある宿場ということで、自分が「坂下」と「土山」の話を聞き間違えていたのかもしれない。
土山宿はかなり史跡&まちなみ保存にも気合の入った、
宿場時代のおもかげも色濃く残るところだった。
マップも気合たっぷり!
わかいりやすい!
このくらいの道幅の両側にびしっと隙間なく、
同じような高さで立ち並ぶ家。
宿場だったことを感じさせるまちなみ
そして亀山宿と同じように、
ここも家の前には、昔の屋号の木札が掲げられていた。
見ながら歩くのは楽しい。
想像力豊かな人なら、建物だけじゃなく、江戸時代にそこで暮らしたり商いをしたりしていた人が動き回っている様子まで、頭の中で描けるはずだ。
自分とか、勝手に会話までさせちゃったりしているし。
今日は天気がいいねえ、三日月屋さん。
土山は雨が多いらしく、
広重の浮世絵でも雨模様が描かれている。
幸い、台風が太平洋上を通過した後の晴天。
連子格子の建物が並ぶ。
ちなみに完全に窓ガラスにするとこんな感じ。
でも建物は昔ながらで、貫禄ある。
今でもかなりの横幅の家となっているのは・・・
油屋さん。
いまはなにをされている家なんだろう。
間口だけでなく、宿場エリアの家は奥行きもかなりあるので、相当な面積の家なんだろう。維持管理も大変そう。
屋号の木札とは別に、
旅籠の場合にはこうした石の標識が立てられている。
和菓子の正和堂。
森鴎外の祖父が亡くなったところ。
森家は代々津和野藩亀井家の典医で、森鴎外の祖父は長崎・江戸で漢学・蘭医学を修めた人で、参勤交代にしたがって旅をしているときに、病にかかり、この井筒屋でなくなったそうだ。
のちに森鴎外がここに立ち寄り、荒れ果てていた墓を探しあて、あらためてお墓を作ったらしい。
問屋場跡。
すごかったのはこっち。
この幅!
問屋宅跡と書かれている。
幅だけでなく奥行きもすごい。
これはむかって左側から見たときの写真だけど、裏手のほうにずっと建物が続いていて、一瞬「造り酒屋かなにか?」と思ってしまうような敷地だ。
もちろん続いているように見えて、別の人の家がつながっているだけの可能性もあるけど。
本陣もすごい。
遺構が残っている貴重な存在とのこと。
明治時代には、東京と京都を行き来する皇族の宿泊も頻繁にあり、明治元年の天皇行幸の際には、ここ土山の本陣で誕生日を迎えられ、土山住民に対して、神酒などがふるまわれたという。
そんな見所一杯の土山歩きには、
この「土山宿絵地図」があると便利。
私は公民館兼お休み処でこれをもらった。
公民館の中の一角がお休み処になっていて、自動給茶機でお茶入れて飲むこともできる。歩きつかれてまったりするのにちょうどいい。
絵地図には細かく説明も入っている。
宿場によってこうした街道歩きの人向けのマップが用意されているところ、されていないところあるが、あるとやはりすごく助かる。